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May 19

zenigata:

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zenigata:

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(via teotr)

アメリカの新奴隷制度 : web-g.org

図書館で借りてきて読んだ。Ⅰが貸し出し中だったのでいきなりⅡから。

アメリカに比べればまだ日本なんかマシだな、と思ってしまう内容。最悪なアメリカ人の人生をこの本の情報を元に書くとこんな感じ。

1. 高校生になって「このまま高卒じゃ単純労働の仕事しか無いじゃん」と大学進学を決意
2. だけど親が学資を貯めてるとかありえない(アメリカ人は貯蓄しない)。学資ローン借りるか
3. 借りて無事大学進学。だけど大学の授業料が在学中に上げられていく。学資ローンの金利も勝手に上げられていく
4. 授業料安い大学に転校するか。でも大学側は転校に必要な資料を提出してくれない(転校されたらお金が入ってこなくなるから)。学資ローンを金利が安いヤツに借り替えようとするが、学資ローンに関しては法律で借り換えができない。そしてなんと、学資ローンは自己破産の適用もされない(借りたら最後、返すまでずっと借金背負わされたまま)
5. 大学卒業頃には借金まみれ。借金の多さを理由に就職できず。
6. お金が無くなって住む場所もなくなり、ホームレス生活
7. ホームレスは法律違反(一部地域)、と言うことで刑務所行き。
8. 刑務所も民営化で有料。1日10ドル取られて、生活必需品も有料。それに対して刑務所労働の賃金は超低賃金。払えるわけも無く、ますます借金膨らむ。
9. 出所した頃には刑務所時代の借金+学資ローンの借金がますます増えててまたホームレス生活
10. 3回刑務所に入ると「スリーストライク法」で自動的に終身刑。一生刑務所の中で低賃金重労働。まさに奴隷人生。

てな感じ。特に問題だと感じたのは

* 社会に疎い学生時代に自己破産の適用外となる学資ローンを組まされること。しかも借り換え不可で金利も勝手に上げられる
* 刑務所の囚人=低賃金で働かせることができる労働者。変な話、企業としては囚人が増えれば増えるほど安い労働力を国内で確保できると言うことで、テロ対策を名目にどんどん法律厳しくして犯罪者増やして刑務所に放り込んでる。

この本を読んで思ったのは、アメリカでは奴隷制度が復活している、ってこと。現在の奴隷とは、借金と言う足輪をとにかく隙あらば嵌めさせて、一旦嵌めさせたらもう一生二度と外れないようにして働かせる。

” — Realtime24

2010-10-08

(via mcsgsym)

(Source: petapeta, via mcsgsym)

Apr 16

asahi.com(朝日新聞社):震災翌日、油性ペンで号外 米で展示へ 石巻日日新聞 - 東日本大震災

東日本大震災で被害を受けた宮城県石巻市の夕刊紙、石巻日日(ひび)新聞が被災後の6日間発行した手書きの壁新聞が、米ワシントンにあるニュースの総合博物館ニュージアムに展示されることになった。困難を乗り越えて発行された歴史的な紙面として、ニ ..read more.. 

via #smartr - my personalized newspaper

Apr 05

noriichi:

i hope your happiness* (via hana**)

noriichi:

i hope your happiness* (via hana**)

(via thinkupstudio)

Mar 29

YouTube - たま「BWV1065 4台のチェンバロのための協奏曲・イ短調」tama “BWV1065”

たまのCD買って応援しましょう。 地球レコード http://www.officek.jp/chikyu/tama.shtmlにこにこさんより転載 ..read more.. 

via #smartr - Brilliant news reader for twitter+iphone

Mar 23

skeletales:

(via National Geographic)

skeletales:

(via National Geographic)

suyhnc:

instagr.am

昨日の敵は今日の友。

suyhnc:

instagr.am

昨日の敵は今日の友。

(Source: rpm99)

Nov 21

lascatola20:

Arcoiris sobre el Mar Caribe (by Jose)

lascatola20:

Arcoiris sobre el Mar Caribe (by Jose)

(via pdl2h)

Sep 15

新宿に行くと、この麻布茶房と言う甘味処に行くことが多いです。

まあ普通に和菓子が好きなんですけども、たぶん私が麻布茶房に行きたがる理由はこのエレベーターにのりたいからというところが大きいように思われます。

7階に例の甘味処。

8階にTUTAYAのアダルトフロアがあるんですよね。

6階の謎の美容室に入っていく人を見たことがありませんし、5階まではだいたいみんなエスカレーターでのぼってしまうので、このエレベーターに乗る人というのは甘味処でスウィートな休憩をとる乙女か、18禁フロアで延々パッケージの裏を眺める男子のみということになります。


私といっしょにエレベーターに乗り合わせた男性が恥ずかしそうに8階のアダルトフロアのボタンを押すのがいいのです。

私はイセタンでの買い物に疲れた足を休め、紀伊国屋本店で買った早川文庫と共にクリームあんみつで休憩。

日曜日の女子のお手本にしたいような一日です。

対して、男性は日曜日の真昼間からアダルトフロアで下着の中をむれむれさせるのです。

恥ずかしいですね。

情けないですね。

この格差!

この優越感!!

繁華街のど真ん中でアダルトビデオを借りてしまう男性というのは、たぶん地元のレンタルビデオ屋さんでは知人に会う可能性も否定できないと、わざわざ新宿まで出てきてくるくらいなのですから相当にシャイな人が多いようです。

相当にシャイな人がアダルトDVDを借りる直前と言うのはやはり相当にテンパっているようで、彼らの中では「このエレベーターに乗る人=アダルトフロアに行く人」という図式ができあがっています。

最初は私のことを「うわっ、このひと女なのにそんな堂々とエロDVD借りるだなんて!! ち、痴女!!」とか好奇心だらけの目線で視姦してきますが、私が涼しい顔で甘味処行きのボタンを押すと、途端にしょぼくれてしまうのがたまらないのです。

今日も私と、荒川良々似の童貞くさい男子と、ユナイテッドアローズな感じのおしゃれ青年(お互い知り合いではありません)が件のエレベーターでいっしょになりました。


童貞男子はやはり8階のボタンを押すのがとても気まずそうで、おしゃれ男子が自分のかわりにボタンを押してくれるのをじっとりと待っているようです。

しかしあいにく、ボジション的にはどう考えても荒川良々がボタン係。


意を決した荒川良々は、なんと片手でボタン周辺を覆い隠し、そして目指す8階、アダルトフロアのボタンを押したのです。


それは、食後に爪楊枝を使っているのを手で隠す人のように、そんなに褒められた行為をしているわけじゃないのに、手でそれとなく隠すだけでむしろスマートなふるまいをしているかのような雰囲気を醸し出しておりました。


「ふふふ、これで僕がどこへ向かうか分からないだろう愚民どもが!!」

とでも言いたげに自信満々の荒川良々。


しかし、彼が手を離した途端に想定外のことが。

なんと彼が押した8階のボタンがピカピカと光っているのです。

「僕はこれからエロDVDを借ります!!」とでも宣言するようにピカピカと光っているのです。

隠していたからこそ何倍増しかで恥ずかしいです。

エレベーターいっぱいに「あいたたたたー」という空気が流れます。

下半身に血が集中している男子は、なんでこうもアホなのでしょうか。


荒川良々がアホなことをしたせいで、何の罪もないおしゃれ青年までアダルトフロアへ行く恥ずかしさが増してしまうことになってしまいました。

さすがに同情してしまって、私もいっしょにアダルトフロアで降りれば彼らの羞恥心も幾分かはやわらぐのだろうか、などと考えていた矢先、おしゃれ青年がさらにだめ押しで7階の甘味処のボタンを押します。

男性がひとりで甘味処というのはなかなかに入りづらいものだと思っていましたが、おしゃれ青年ならば確かに許される気がします。

というか、私とおしゃれ青年が甘味処で休憩をとるカップルという雰囲気になってしまいました。

甘味処へ行くカップル+AVを借りる童貞。

これは荒川良々、大ダメージです。

インポになってしまうかもしれません。

三者三様の気持ちを乗せたまま、甘味処へ到着。

私とおしゃれ青年がいっしょに降り、荒川良々ひとりを載せたエレベーターはアダルトフロアへ向かって動き出します。

今頃、荒川良々はどんな顔をしているのでしょうか。

振り返って確認する勇気はありませんでした。

優越感を抱くためにエレベーターに乗ったというのに、なんだかしんみりした気持ちになりながら私は甘味処へ向かっていったのでした。

と、ここでエレベーター物語は完結するものかと思っていたら、私といっしょに降りたおしゃれ青年は、あろうことかすぐ横の階段で颯爽と8階へ向かう姿が目に入ったのです。
結局おまえもアダルトフロアに行くんじゃねーか!!


なんというフェイント。

童貞男子とおしゃれ青年の、人としての格の違いを見せつけられることになりました。

8階で、おしゃれ青年と出会った童貞少年は、はらわたを煮え繰り返しつつもこれでひとつ成長を遂げることになるでしょう。

新宿TUTAYAのエレベーターの中では日々、様々なドラマが繰り広げられているのです。

というようなことを考えながらクリームあんみつを食べるとおいしいです。

” — 2009年04月27日のブログ|峰なゆかのNow You Can☆ (via rightstaff) (via nagas) (via 00a) (via plasticdreams, katsuma)
2009-04-28 (via gkojay) (via pdl2h)

Aug 25

忘れもしない今年の5月18日。 武蔵野赤十字病院、循環器科の医師から次のような宣告を受けた。 「膵臓ガン末期、骨の随所に転移あり。余命長くて半年」 妻と二人で聞いた。二人の腕だけでは受け止められないほど、唐突で理不尽な運命だった。 普段から心底思ってはいた。 「いつ死んでも仕方ない」 とはいえあまりに突然だった。

確かに兆候はあったと言えるかもしれない。その2~3ヶ月前から背中の各所、脚の付け根などに強い痛みを感じ、右脚には力が入らなくなり、歩行にも大きく困難を生じ、鍼灸師やカイロプラクティックなどに通っていたのだが、改善されることはなく、MRIやPET-CTなどの精密機器で検査した結果、いきなりの余命宣告となった次第である。 気がつけば死がすぐ背後にいたようなもので、私にはどうにも手の打ちようもなかったのだ。

宣告の後、生き延びるための方法を妻と模索してきた。それこそ必死だ。 頼もしい友人や強力この上ない方の支援も得てきた。抗ガン剤は拒否し、世間一般とは少々異なる世界観を信じて生きようとした。「普通」を拒否するあたりが私らしくていいような気がした。どうせいつだって多数派に身の置き所なんかなかったように思う。医療についてだって同じだ。現代医療の主流派の裏にどんなカラクリがあるのかもあれこれ思い知った。 「自分の選んだ世界観で生き延びてやろうじゃないか!」 しかし。気力だけではままならないのは作品制作とご同様。 病状は確実に進行する日々だった。

一方私だって一社会人として世間一般の世界観も、半分くらいは受け入れて生きている。ちゃんと税金だって払ってるんだから。立派には縁遠いが歴とした日本社会のフルメンバーの1人だ。 だから生き延びるための私的世界観の準備とは別に、 「ちゃんと死ぬための用意」 にも手を回してきたつもりだ。全然ちゃんと出来なかったけど。 その一つが、信頼のおける二人の友人に協力してもらい、今 敏の持つ儚いとはいえ著作権などの管理を任せる会社を作ること。 もう一つは、たくさんはないが財産を円滑に家内に譲り渡せるように遺言書を作ることだった。無論遺産争いがこじれるようなことはないが、この世に残る妻の不安を一つでも取り除いてやりたいし、それがちょいと向こうに旅立つ私の安心に繋がるというもの。

手続きにまつわる、私や家内の苦手な事務処理や、下調べなどは素晴らしき友人の手によってスピーディに進めてもらった。 後日、肺炎による危篤状態の中で、朦朧としつつ遺言書に最後のサインをしたときは、とりあえず、これで死ぬのも仕方ないと思ったくらいだった。 「はぁ…やっと死ねる」 なにしろ、その二日前に救急で武蔵野赤十字に運ばれ、一日おいてまた救急で同じ病院へ運ばれた。さすがにここで入院して細かい検査となったわけだ。結果は肺炎の併発、胸水も相当溜まっている。医師にはっきり聞いたところ、答えは大変事務的で、ある意味ありがたかった。 「持って…一日二日……これを越えても今月いっぱいくらいでしょう」 聞きながら「天気予報みたいだな」と思ったが事態は切迫していた。 それが7月7日のこと。なかなか過酷な七夕だったことだよ。

ということで早速腹はきまった。 私は自宅で死にたい。 周囲の人間に対して最後の大迷惑になるかもしれないが、なんとしてでも自宅へ脱出する方法をあたってもらった。 妻の頑張りと、病院のあきらめたかのような態度でありつつも実は実に助かる協力、外部医院の甚大な支援、そして多くの天恵としか思えぬ偶然の数々。 あんなに上手く偶然や必然が隙間なくはまった様が現実にあるとは信じられないくらいだ。「東京ゴッドファーザーズ」じゃあるまいし。

妻が脱出の段取りに走り回る一方、私はと言えば、医師に対して「半日でも一日でも家にいられればまだ出来ることがあるんです!」と訴えた後は、陰気な病室で一人死を待ち受けていた。 寂しくはあったが考えていたのはこんなこと。 「死ぬってのも悪くないかもな」 理由が特にあるわけもなく、そうとでも思わないといられなかったのかもしれないが、気持ちは自分でもびっくりするほど穏やかだった。 ただ、一つだけどうしても気に入らない。 「この場所で死ぬのだけは嫌だなぁ…」 と、見ると壁のカレンダーから何か動き出して部屋に広がり始めるし。 「やれやれ…カレンダーから行列とはな。私の幻覚はちっとも個性的じゃないなぁ」 こんな時だって職業意識が働くものだと微笑ましく感じたが、全くこの時が一番死の世界に近寄っていたのかもしれない。本当に死を間近に感じた。 死の世界とシーツにくるまれながら、多くの人の尽力のおかげで奇跡的に武蔵野赤十字を脱出して、自宅に辿り付いた。 死ぬのもツライよ。 断っておくが、別に武蔵野赤十字への批判や嫌悪はないので、誤解なきよう。 ただ、私は自分の家に帰りたかっただけなのだ。 私が暮らしているあの家へ。

少しばかり驚いたのは、自宅の茶の間に運びこまれるとき、臨死体験でおなじみの「高所から自分が部屋に運ばれる姿を見る」なんていうオマケがついたことだった。 自分と自分を含む風景を、地上数メートルくらいからだろうか、ワイド気味のレンズで真俯瞰で見ていた。部屋中央のベッドの四角がやけに大きく印象的で、シーツにくるまれた自分がその四角に下ろされる。あんまり丁寧な感じじゃなかったが、文句は言うまい。

さて、あとは自宅で死を待つばかりのはずだった。 ところが。 肺炎の山を難なく越えてしまったらしい。 ありゃ? ある意味、こう思った。 「死にそびれたか(笑)」 その後、死のことしか考えられなかった私は一度たしかに死んだように思う。朦朧とした意識の奥の方で「reborn」という言葉が何度か揺れた。 不思議なことに、その翌日再び気力が再起動した。 妻を始め、見舞いに来て気力を分け与えてくれた方々、応援してくれた友人、医師や看護師、ケアマネージャなど携わってくれている人すべてのおかげだと思う。本当に素直に心の底から。

生きる気力が再起動したからには、ぼんやりしているわけにはいかない。 エクストラで与えられたような命だと肝に命じて、大事に使わねばならない。 そこで現世に残した不義理を一つでも減らしたいと思った。 実はガンのことはごくごく身の回りの人間にしか伝えていなかった。両親にも知らせていなかったくらいだ。特に仕事上においては色々なしがらみがあり、言うに言えなかった。 インターネット上でガンの宣言をして、残りの人生を日々報告したい気持ちもあったのだが、今 敏の死が予定されることは、小さいとはいえ諸々影響が懸念されると思えたし、それがゆえに身近な知り合いにも不義理を重ねてしまっていた。まことに申し訳ない。

死ぬ前にせめて一度会って、一言でも挨拶したい人はたくさんいる。 家族や親戚、古くは小中学校からの友人や高校の同級生、大学で知り合った仲間、漫画の世界で出会い多くの刺激を交換した人たち、アニメの世界で机を並べ、一緒に酒を飲み、同じ作品で腕前を刺激しあい、楽しみも苦しみも分け合った多くの仲間たち、監督という立場のおかげで知り会えた数知れないほどたくさんの人びと、日本のみならず世界各地でファンだといってくれる人たちにも出会うことが出来た。ウェブを通じて知り合った友人もいる。

出来れば一目会いたい人はたくさんいるが(会いたくないのもいるけれど)、会えば「この人ともう会えなくなるんだな」という思いばかりが溜まっていきそうで、上手く死を迎えられなくなってしまいそうな気がした。回復されたとはいえ私に残る気力はわずかで、会うにはよほどの覚悟がいる。会いたい人ほど会うのがつらい。皮肉な話だ。 それに、骨への転移への影響で下半身が麻痺してほぼ寝たきりになり、痩せ細った姿を見られたくもなかった。多くの知り合いの中で元気な頃の今 敏を覚えていて欲しいと思った。 病状を知らせなかった親戚、あらゆる友人、すべての知人の皆さん、この場を借りて不義理をお詫びします。でも、今 敏のわがままも理解してやっていただきたい。 だって、「そういうやつ」だったでしょ、今 敏って。 顔を思い出せば、いい思い出と笑顔が思い起こされます。 みんな、本当にいい思い出をたくさんありがとう。 自分の生きた世界を愛している。 そう思えることそのものが幸せだ。

私の人生で出会った少なからぬ人たちは、肯定的否定的どちらであっても、やっぱり今 敏という人間の形成にはどこか必要だっただろうし、全ての出会いに感謝している。その結果が四十代半ばの早い死であったとしても、これはこれとして他ならぬ私の運命と受け止めている。いい思いだって随分させてもらったのだ。 いま死について思うのはこういうこと。 「残念としかいいようがないな」 本当に。

しかし、多くの不義理は仕方ないと諦めるにせよ、私がどうしても気に病んで仕方なかったことがある。 両親とマッドハウス丸山さんだ。 今 敏の本当の親と、アニメ監督の親。 遅くなったとはいえ、洗いざらい本当のことを告げる以外にない。 許しを乞いたいような気持ちだった。

自宅に見舞いに来てくれた丸山さんの顔を見た途端、流れ出る涙と情けない気持ちが止めどなかった。 「すいません、こんな姿になってしまいました…」 丸山さんは何も言わず、顔を振り両手を握ってくれた。 感謝の気持ちでいっぱいになった。 怒涛のように、この人と仕事が出来たことへの感謝なんて言葉ではいえないほどの歓喜が押し寄せた。大袈裟な表現に聞こえるかもしれないが、そうとしか言いようがない。 勝手かもしれないが一挙に赦された思いがした。

一番の心残りは映画「夢みる機械」のことだ。 映画そのものも勿論、参加してくれているスタッフのことも気がかりで仕方ない。だって、下手をすればこれまでに血道をあげて描いて来たカットたちが誰の目にも触れない可能性が十分以上にあるのだ。 何せ今 敏が原作、脚本、キャラクターと世界観設定、絵コンテ、音楽イメージ…ありとあらゆるイメージソースを抱え込んでいるのだ。 もちろん、作画監督、美術監督はじめ、多くのスタッフと共有していることもたくさんあるが、基本的には今 敏でなければ分からない、作れないことばかりの内容だ。そう仕向けたのは私の責任と言われればそれまでだが、私の方から世界観を共有するために少なからぬ努力はして来たつもりだ。だが、こうとなっては不徳のいたすところだけが骨に響いて軋んだ痛みを上げる。 スタッフのみんなにはまことに申し訳ないと思う。 けれど少しは理解もしてやって欲しい。 だって、今 敏って「そういうやつ」で、だからこそ多少なりとも他とはちょっと違うヘンナモノを凝縮したアニメを作り得てきたとも言えるんだから。 かなり傲慢な物言いかもしれないが、ガンに免じて許してやってくれ。

私も漫然と死を待っていたわけでなく、今 敏亡き後も何とか作品が存続するべく、ない頭を捻って来た。しかしそれも浅知恵。 丸山さんに「夢みる機械」の懸念を伝えると、 「大丈夫。なんとでもするから心配ない」 とのこと。 泣けた。 もう号泣。 これまでの映画制作においても予算においても不義理ばかり重ねて来て、でも結局はいつだって丸山さんに何とかしてもらって来た。 今回も同じだ。私も進歩がない。 丸山さんとはたっぷり話をする時間が持てた。おかげで、今 敏の才能や技術がいまの業界においてかなり貴重なものであることを少しだけ実感させてもらった。 才能が惜しい。何とかおいていってもらいたい。 何しろザ・マッドハウス丸山さんが仰るのだから多少の自信を土産に冥途に行けるというものだ。 確かに他人に言われるまでもなく、変な発想や細かい描写の技術がこのまま失われるのは単純に勿体ないと思うが、いた仕方ない。 それらを世間に出す機会を与えてくれた丸山さんには心から感謝している。本当ににありがとうございました。 今 敏はアニメーション監督としても幸せ者でした。

両親に告げるのは本当に切なかった。 本当なら、まだ身体の自由がきくうちに札幌に住む両親にガンの報告に行くつもりだったが、病気の進行は悔しいほど韋駄天で、結局、死に一番近づいた病室から唐突極まりない電話をすることになってしまった。 「オレ、膵臓ガン末期でもうすぐ死ぬから。お父さんとお母さんの子供に生まれて来て本当に良かった。ありがとう」 突然聞かされた方は溜まったものではないだろうが、何せその時はもう死ぬという予感に包まれていたのだ。

それが自宅に帰り、肺炎の危篤を何とか越えて来た頃。 一大決心をして親に会うことにした。 両親だって会いたがっていた。 しかし会えば辛いし、会う気力もなかったのだが、どうしても一目親の顔を見たくなった。直接、この世に産んでもらった感謝を伝えたかった。 私は本当に幸せだった。 ちょっと他の人より生き急いでしまったのは、妻にも両親にも、私が好きな人たちみんなに申し訳ないけれど。 私のわがままにすぐ対応してくれて、翌日には札幌から両親が自宅についた。 寝たきりとなった私を一目見るなり母が言った言葉が忘れられない。 「ごめんねぇ!丈夫に産んでやれなくて!」 何も言えなかった。

両親とは短い間しか過ごさなかったが、それで十分だった。 顔を見れば、それですべてわかるような気がしたし、実際そうだった。

ありがとう、お父さん、お母さん。 二人の間の子供としてこの世に生を受けたことが何よりの幸せでした。 数えきれないほどの思い出と感謝で胸がいっぱいになります。 幸せそのものも大事だけれど、幸せを感じる力を育ててもらったことに感謝してもしきれません。 本当にありがとうございました。

親に先立つのはあまりに親不孝だが、この十数年の間、アニメーション監督として自分の好きに腕を振るい、目標を達成し、評価もそれなりに得た。あまり売れなかったのはちょいと残念だが、分相応だと思っている。 特にこの十数年、他人の何倍かの密度で生きていたように思うし、両親も私の胸のうちを分かってくれていたことだろう。

両親と丸山さんに直接話が出来たことで、肩の荷が下りたように思う。

最後に、誰よりも気がかりで、けれど最後まで頼りになってくれた妻へ。 あの余命宣告以来何度も二人で涙にくれた。お互い、身体的にも精神的にも過酷な毎日だった。言葉にすることなんて出来ないくらい。 でも、そんなしんどくも切ない日々を何とか越えて来られたのは、あの宣告後すぐに言ってくれた力強い言葉のおかげだと私は思っている。 「私、最後までちゃんと伴走するからね」 その言葉の通り、私の心配など追い越すかのように、怒濤のごとく押し寄せるあちらこちらからの要求や請求を交通整理し、亭主の介護を見よう見まねですぐに覚え、テキパキとこなす姿に私は感動を覚えた。 「私の妻はすごいぞ」 今さらながら言うな?って。いやいや、今まで思っていた以上なんだと実感した次第だ。 私が死んだ後も、きっと上手いこと今 敏を送り出してくれると信じている。 思い起こせば、結婚以来「仕事仕事」の毎日で、自宅でゆっくり出来る時間が出来たと思えばガンだった、ではあんまりだ。 けれど、仕事に没頭する人であること、そこに才能があることを間近にいてよく理解してくれていたね。私は幸せだったよ、本当に。 生きることについても死を迎えるにあたっても、どれほど感謝してもしきれない。ありがとう。

気がかりなことはもちろんまだまだあるが、数え上げればキリがない。物事にも終わりが必要だ。 最後に、今どきはなかなか受け入れてもらいにくいであろう、自宅での終末ケアを引き受けてくれた主治医のH先生、そしてその奥様で看護師のKさんに深い感謝の気持ちをお伝えしたい。 自宅という医療には不便きわまりない状況のなか、ガンの疼痛をあれやこれやの方法で粘り強く取り除いていただき、死というゴールまでの間を少しでも快適に過ごせるようご尽力いただき、どれほど助けられたことでしょう。 しかも、ただでさえ面倒くさく図体と態度の大きな患者に、単なる仕事の枠組みをはるかに越え、何より人間的に接していただいたことにどれほど私たち夫婦が支えられ、救われたか分かりません。先生方御夫婦のお人柄にも励まされることも多々ありました。 深く深く感謝いたしております。

そして、いよいよ最後になりますが、5月半ばに余命宣告を受けてすぐの頃から、公私に渡って尋常ではないほどの協力と尽力、精神的な支えにもなってくれた二人の友人。株式会社KON’STONEのメンバーでもある高校時代からの友人Tと、プロデューサーHに心からの感謝を送ります。 本当にありがとう。私の貧相なボキャブラリーから、適切な感謝の言葉を探すのも難しいほど、夫婦揃って世話になった。 2人がいなければ死はもっとつらい形で私や、そばで看取る家内を呑み込んでいたことでしょう。 何から何まで、本当に世話になった。 で。世話になりついでですまんのだが、死んだあとの送り出しまで、家内に協力してやってくれぬか。 そうすりゃ、私も安心してフライトに乗れる。 心から頼む。

さて、ここまで長々とこの文章におつき合いしてくれた皆さん、どうもありがとう。 世界中に存する善きものすべてに感謝したい気持ちと共に、筆をおくことにしよう。

じゃ、お先に。

今 敏

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